「正論原理主義の病」に関連して再々反論

メインのブログに書いた「正論原理主義という病」という記事に対して、再反論をいただきました。メインのブログで扱うようなことではないと思うのに加え、もともと、はてな向けの話だと思うので、「出張所」の方で、若干補足します。この記事に最初にたどりついた方は、元の記事からお読みいただければと思います。

正論原理主義という病
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-5758.html

論点1

正論原理主義」などという愚かしい表現を、一切批判的に検討することもなく援用してしまうような無批判な態度(それが「情報学」なのだということであるが。嗚呼)。その態度がよく表れているのが以下の引用。

正論原理主義」を克服するとは、「正論原理主義者」のように、「現実逃避」をしたり、「現実の自分を否定して、殻に閉じこもる」ことを止めて、「絶対的な自己肯定」をすること。

「絶対的な自己肯定」を目的とするというのは、恐るべき自己ファシズムだろう(それをこそ「自己肯定原理主義」である、と皮肉のひとつでも言うべきでしょうか知らん?)(それに「正論原理主義者」と「現実逃避」や「殻に閉じこもる」が、どのような理路を通って結びつくのか、まったく不明である)。

そんなことが本気で可能だと、この人は思うのだろうか。「絶対的」などという言葉は軽々しく口には出来ないものだ。むしろ、絶え間ない自己批判こそ知性の取るべき態度だと、私は理解している。「絶対」などに辿り着くことのない永遠の弁証法自己批判こそ、わたしがアドルノから学び取ろうとしていることだ。

正論原理主義」などという醜悪な表現が卑しくも小説家の口から
http://d.hatena.ne.jp/negative_dialektik/20090309/1236605184

正直に感想を言うと、この部分は本題じゃないんだけどなぁ、そこに食いつくかな…というところです。この部分は、議論の全体を受けた「もっと先」の話をしている部分であり、明確な根拠はブログの他の記事を読んでもらわないと分からないような構造になっているからです。ただ、せっかくなので簡単に説明することにします。

どうもこの人は、「絶対的な自己肯定」という言葉を、「論理的な正しさを絶対的に証明する」こととして理解しているようです。その理解が全く間違っています。

ある選択があって、どちらを取った方が良いかは論理的に決められないという状況はいくらでも考えられます。そういうとき、自分以外の何かを基準として、その基準で何かを考えることは楽です。しかし、そうやって考える人は、結局のところ「自分」自身も、自分の外側の基準で評価することになってしまうのです。その評価がうまく行っている場合は良いでしょうが、うまく行かなくなれば「自己否定」に陥ってしまいます。

もちろん、自分の選択の手段として、さまざまな外部の基準を用いるのは良いことでしょう。しかし、どんな基準を用いたとしても、その基準自体が、すべて「自分のためのもの」だということを引き受けなければいけません。そうやって、自分の選択、自分の存在をどこまでも肯定していくことを「絶対的な自己肯定」と呼んだのです。これは「自分の思考が論理的な絶対性を持っている」という考えと正反対の考え方です。むしろ、「論理的」という評価基準自体が、自分の外部の基準の一つであり、そういうものに依存せずに、「自分の存在を肯定する」という考え方だからです。

これが「正論原理主義」と関係しているのは、「正論」というのは、通常、自分の外側にある基準の一つに過ぎないものだからです。<私>というのは、多様な価値基準を含むものであり、<私>を絶対的に肯定するというのは、そうした多様な価値基準の全体を肯定するということにほかなりません。これに対し「正論原理主義」に陥る人は、「正論」という自分の外側の価値基準に「逃避」して、多様なあり方を持つ<私>そのものを肯定していないことになるでしょう。自分はこれを「現実の自分を否定して、殻に閉じこもる」と表現したわけです。

むしろ不思議なのは、

絶え間ない自己批判こそ知性の取るべき態度だと、私は理解している。「絶対」などに辿り着くことのない永遠の弁証法自己批判こそ、わたしがアドルノから学び取ろうとしていることだ。

と言っているということ。これは、結果として「正論原理主義批判」を肯定することになっていると思われるからです。私たちが「正論」と思っていることでも、それは「絶対的な真実」などではない。「絶え間ない自己批判」が必要だという理解は、「正論」がしばしば「原理主義」に陥りやすいものであるということにもつながるでしょう。いったい、彼はこの自己矛盾にどう対応するのでしょうか。

論点2

さて、話は変わりますが、

マスメディアが偏向報道をする理由は様々あろう。政府筋や検察筋などの大本営発表を無批判に記事にしてしまう批判精神=ジャーナリズム精神の欠落、国家権力からの水面下での要請、アメリカ筋からの有形無形の圧力、放送免許取り上げをちらつかせての実質的事前抑制、それらに迎合しようとする自主規制的態度、マスメディア自身の利権体質、談合体質、などなど。それらの現実的具体的諸要因を一切捨象して「正論原理主義」などという幽霊のように曖昧模糊とした原因に一切を押し付ける態度は、端的に幼稚でおめでたいというべきであり、我々のメディアリテラシーの向上を阻害しかねないという危惧を呈するべきかと愚考する。

たしかに「それらの現実的具体的諸要因を一切捨象」するべきではありません。報道の偏向の理由がすべて、コミュニケーションの固定化に結びつけられるわけではないと思いますが、無関係であるとか、「メディアリテラシーの向上を阻害しかねない」というのは暴論でしょう。

たとえば、警察の取材をしている記者は多くの場合、「本当はこれが正しいのだけれど、一応、こう言っておこう」と思っているわけではありません。当たり前のように警察が言っていることが正しいと信じて記事を書き、それが他の報道機関の記事と矛盾しないであろうことをもって「問題なく仕事を終えた」と思っている。こうして「とりあえず書かれた記事」は、デスクに行き、さらにワイドショーにまでたどり着く間に、「正論」と化していくのです。こうした状況で、警察の発表に反する取材をする記者がいたとしても、「そんなのはおもしろくない」ということで報道されない。それは、彼らが自分たちで作った「正論」に反しているからです。これを「ジャーナリズム精神の欠落」「自主規制的態度」と言うことはできるかもしれないし、それを否定するわけではありません。しかし、その背景に「コミュニケーションの固定化」という問題があることは注目に値するでしょう。

これはメディアリテラシーとしても非常に重要だと思います。私たちは偏向している報道を見ると、「何かから圧力を受けているに違いない」と考えてしまいます。もちろん、そういう可能性もあるでしょうが、ない場合もある。私が言っているのは、「圧力を受けている場合も受けていない場合も、偏向は偏向であって是正するべきだ」ということ、その背景として「コミュニケーションの固定化」(さらには正論原理主義)という現象があるのであり、マスメディアも、視聴者/読者もそのことに気づくべきだと言っているのです。

要するに自分は、曖昧な問題に原因を押しつけようとしているのではなく、単に偏向の原因の一つを提示しているのに過ぎません。「「正論原理主義」などという幽霊のように曖昧模糊とした原因」というのは、単にこの言葉が意味していることを理解できていないということを露呈するものに過ぎないでしょう。「コミュニケーションの固定化」は、他の要因と並んでマスメディアの偏向の重要な要因の一つであり、マスメディア自身が自覚するべき重要な問題ではないかと思います。

関連する記事

物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d527.html

生きる意味について
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_311d.html

[映画]存在の耐えられない軽さ
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-f3d6.html

カルデロン一家の問題


カルデロン一家の問題で以前書いた記事にものすごいアクセスが来ています。ココログのランキングでは、きっこのブログ植草一秀氏氏のブログを抑えて、連日1位〜2位。そして、たくさんのコメントをいただいています。

コメント欄を見てもらえれると分かるように、そのほとんどが賛同の意見。でも、「何か焦点がずれている」んだよなぁ。「犯罪者は追い出せ」って、それじゃぁただの排外主義じゃん。冷静に書いてあるように見えるけれど、実際には「カルデロン一家がかわいそう」と同レベルの感情論ではないかと思います。

「この問題は感情論で理解していはいけない」ということを指摘するつもりで書いた記事なのですが、そんな自分の思いと逆に、感情的なコメントでいっぱいになっていることを複雑な気持ちで眺めています。批判的なコメントだったら反論できるのに、下手に賛同の意見だから反論のしようもないし…。

「コメントは本文を読んでから付けるべき」という当たり前のことを実行していない人がどれだけ多いかが良く分かります。


○関連記事

http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-2243.html
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-350.html
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1222628.html
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200902140025136

生きる意味とコードの自律性

初の「出張所オリジナル」記事です。

情報学ブログを開設したばかりのころ、「生きる意味について」というタイトルで記事を書いたのですが、最近、はてな匿名ダイアリーでこの問題が話題のようです。そうした中、404 Blog Not Foundの[[小飼弾]]さんが興味深いことを書いていました。小飼さんの結論は、はっきり言ってしまうと、「生きる意味について」で自分が書いたことと全く同じです。しかし、どうして興味深いかというと、その説明の仕方なのです。ドーナッツ云々は、曖昧な比喩なのでさておき、以下の部分が気になりました。

例えばここに111001011011000010001111111010011010001110111100111001011011110010111110という0と1の羅列があったとしよう。これ、そこに意味がないと思えば、ただのビットの連なりでしかない。しかしプログラマーであればそれが「小飼弾」をUTF-8で表現して、それを二進法で表示したものという意味を「見いだせる」。「だからどうした」と言われればその時点で意味は「なくなっちゃう」けど、もとから「あった」ものがなくなるわけじゃないんだからそれに意味がないことにはそれほど意味がない(笑)。むしろ「意味があった」というより「意味が見つかる」ことに意味がある。私にはね。
意味の有無を問う(無)?意味/404 Blog Not Found

ビット列をUnicodeに変換するような「コード化(encode)」の問題を扱ったのはクロード・シャノン情報理論です。シャノンの情報理論から言うと、ビット列は、情報の受信者が情報の送信者と共有する「コード」によって解釈されるものなのです。
これに対して、「情報は解釈者によって意味が異なる」「情報の意味は解釈者によって発見される」という考え方は、歴史的にはベイトソンの情報観によって先鞭を付けられたと言って良いでしょう。しばしば引用されるのがグレゴリー・ベイトソンの以下の記述です。

意味・パターン・冗長性・情報というものの性質は、我々の立つ視座によって一変する。情報工学で、AからBに送られるメッセージを論じるさいには、観察者のことは考慮せずに、Bの受信した情報量を、伝達された文字数とBに推測を許すテキスト内部の冗長性から決定するのが通例である。しかし我々の生きる宇宙を、観察者の視点によって姿が変わってくるような、より大きな視野において捉えるとき、そこに見えてくるのはもはや、"情報の伝達"ではなく、冗長性の蔓延である。
Gragory Bateson 1972 "Steps to an Ecology of Mind" 訳:佐藤良明 グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』p.542

前後がないとちょっと分かりづらいと思いますが、ベイトソンは生物は事前に定められたコードによって情報が解釈されるのではなく、冗長性によって「意味を主体的に見つける」という考え方を提示したのです。ここではシャノンの固定的な「コード」という考え方が葬られ、パターンや冗長性という言葉で「意味」が理解されています。小飼さんの説明は、シャノンのような固定的なコード概念を前提にして、ベイトソン的な考え方を指摘するものであり、情報理論の流れから言うと、ちょっと変わったものなのです。
情報学ブログの「生きる意味について」の議論では、「情報は『〜にとって』という形でしか意味を持ち得ない」ということを出発点にして生きる意味の議論をしたのですが、それにはこういう複雑な議論を避ける意味もありました。小飼さんが言いたいことを端的にまとめれば、、「情報は『〜にとって』という形でしか意味を持ち得ない」ということであり、これを出発点にして考えた方が分かりやすい説明になるでしょう。
そうとは言っても自分は小飼さんの説明に異論を唱えるわけではありません。ただ、これには若干、理論的な拡張が前提になります。情報解釈の「コード」は通常、プログラムなどで論理的に記述できるようなものを指すわけですが、論理的に記述できない「自律性なコード」にまで概念を広げるという拡張です。このように考えると、私たちは自律的に情報解釈を行いながら、自律的な情報解釈の中であるコード(たとえばUnicode)をそっくりそのまま自分のものとして受け入れるというようなことも説明できるようになります。要するに、シャノンの理論とベイトソンの議論は矛盾するわけではなく、シャノンの理論の自然な拡張としてベイトソンの議論を理解することもできるのです。この立場からすると、小飼さんの「ドーナッツの比喩」も「Unicodeの比喩」も一貫して理解することができることになります。
いずれにせよ、404 Blog Not Foundの記述は比喩的な部分も含めて自分には良く分かります。でも、これだと分からない人も多いんじゃないでしょうか。それで、蛇足ながら補足をさせてもらったものです。この記事は若干マニアックな議論に立ち入っているものなので、これを読んでも良く分からない人は、「生きる意味について」の方を読んでいただければ幸いです。

拉致問題をめぐる小沢代表の発言(link)

2月上旬、都内で開かれた民主党議員と支持者による会合。党代表、小沢一郎が発した言葉に会場は一瞬凍りついた。

拉致問題北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」

日本人の人権と日本の主権を蹂躙(じゅうりん)した北朝鮮の犯罪をカネで決着させる−。あまりにもドライな小沢発言は、当然のごとく、箝口(かんこう)令が敷かれた。

外交・安全保障をめぐる小沢の「危うさ」が露呈し始めている。

民主党解剖】第1部「政権のかたち」(1)「小沢首相」は大丈夫か
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090302/stt0903020008000-n1.htm
【民主】小沢氏「拉致問題北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」/痛いニュース
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1220871.html

この小沢代表の発言は反発したくもなるけれど、正しいっちゃ正しい。小泉元首相が拉致被害者を日本に連れてきたのも「金」によるものだったわけだから、歴史認識としても正しいでしょう。前後の文脈が分からないと評価しようのない発言だと思います。

最近よく疑問に感じるのが、「北朝鮮拉致被害者の奪還」を主張する人が、その手段として「北朝鮮への強硬策」を主張していることがあることです。これは、民族主義者の感情を煽る政治的に「受ける」発言であるにしても、二つが矛盾することは間違いないでしょう。日本人として非常に残念なことではありますが、今の日本は、拉致被害者を捨てて北朝鮮に強硬策をとるか、拉致被害者を重視して北朝鮮に懐柔策をとるかという二者択一が迫られている状況ではないかと思います。理想主義で、目立った成果のなかった安倍元首相と比べれば、小沢代表の発言ははるかに現実主義的。大衆受けするものではないかもしれませんが、外交という意味で、むしろプラスに評価できるものだと思います。

続きを読む

首相が定額給付金が受け取るかどうかなんてどうでもいい(link)

野党各党は2日、麻生太郎首相が定額給付金の受け取りを表明したことについて「あまりにみっともない。党利党略のさもしい発想だ」(民主党鳩山由紀夫幹事長)などと一斉に批判した。

http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009030201000754.html

麻生首相定額給付金を受け取るかどうかが問題になっています。しかし、「首相が給付金が受け取るかどうかなんてどうでいい」そう思っている人は少なくないのでしょうか。そんなことについて記事を書く時間と紙面があるのなら、その時間と紙面を、もっと政策的な問題に回してほしいと思うのは自分だけではないでしょう。国会議員全員が定額給付金を受け取ったとしても、722人×1.2万円=866.4万円。この問題について議論するための放送するための放送時間や紙面を値段に換算したら、これをはるかに上回る金額になるはずです。麻生首相が受け取る定額給付金では、アナウンサーが麻生の「ア」を発音することすらできないのではないでしょうか。

続きを読む

インターネット・コミュニケーションの正当性―アメーバブログとWikipedia(link)

アメーバブログアメブロ)内のタレントブログで、運営側が批判的なコメントを削除しているというのは、当然のことと思っていました。というのも、以前、アメーバブログを運営するサイバーエージェントの広報担当の方からお話を聞いたときに、アメーバブログの長所として、わざわざこのことをPRされていたからです。このほか、ブログの運営方法についてのコンサルティングサービスを行っているということもおっしゃっていました。

サイバーエージェントアメーバスタジオアメーバビジョンなど、有名人、タレントの取り込みに非常に積極的であり、その一貫として、ブログ向けのサービスを行っているのです。タレントブログは、ニュース系、学術系のブログと異なり、「正しさ」ではなく「おもしろさ」が要求されるもの。このことをもとにアメーバブログの運営方法を批判するような意見は、見当違いではないかと思います。

続きを読む