地下猫が返答に窮して爆発、情報学ブログとのやりとりにて

地下猫氏(id:tikani_nemuru_M)とTwitterでやりとり(togetter)をしていたのだけれど、返答に窮して答えられなくなったあげく、「読む価値も対話の価値もない」だそうだ。

「情報学ブログ」の読み方・楽しみ方 id:tikani_nemuru_M:20100902:1283403156

たしかに、間違えて書いて途中で訂正した点はあるが、基本的には地下猫の論旨が一定していないので、それに合わせて相手をしたあげただけ。そしたら「一貫してない」と宣う。全部相手をしてやっている暇はないので、最初の2つの論点だけ反論しておこうと思う。

一つ目の論点

まず、地下猫のTwitterの発言のまとめ。

  1. 事実に基づいて科学が成り立っているから科学は正しい。
  2. 事実の例として「定量化」されたデータがある。
  3. 定量化の例として「飢えの定量化」や「痛みの定量化」といった定量化がある。

まとめると、「飢えや痛みの定量化を含め、定量化されたデータは事実であり、科学は事実を根拠としているから正しい」ということだ。これに対して私は、「痛みの定量化なんて主観的なものだし、それならホメオパシーと同じじゃん」って言ったのだが、いまだに反論はない。

地下猫氏は、この議論の過程での私の「定量化」という言葉のブレを問題にしているようだ。もともと、「科学の根拠は事実」「事実の例として定量化」があるという話の流れだったので、当然、「客観的な定量化」が問題になっていると思った。ところが、地下猫氏が「痛みの定量化」というから、「できるなら天才だ」という対応をしたわけだ。もちろん、主観的定量化も含めて「定量化」という表現を拡張するなら定量化はできるが、そうだとすると、地下猫のそこまでの議論が全部崩れる。

要するに「狭義の定量化」と「広義の定量化」の違いの問題に過ぎないということ。

自分の読解力のなさを棚に上げて、議論を投げ出し、勝ち誇ったつもりになっているらしい。ご苦労様。

二つ目の論点

二つ目の論点はもっとひどい。自分が間違えて書いたので訂正したものを取り上げていい気になっている。「訂正した」という点を、小さく注に書くとかほとんど詐欺。

相対主義うんぬん

基本的に自分は相対主義なんか擁護してないのに、勝手に「相対主義者」と決めつけて批判してる。「相対主義じゃダメ」って一貫して言ってるんだけど。彼には分からないらしい。ちなみに、自分が言ってるのは、議論の目的に応じてメタな視点(相対的な視点)も必要という話。これは相対主義とは全く異なる。議論の目的に応じてメタな視点を取ることを拒否するのなら、それは単なる頭のおかしい人だ。

それから、事実の相対性云々は、彼の用語があまりにも一般的な用語と違うので、こっちが何度も用語を変えて説明した。それで揚げ足取られても困る。まずは、どういう意味で「事実」と言ってるのか明確にしてもらわないと話にならん。

定量化について追記

コメント欄とかはてブを見てたら、「主観的定量化が科学の基礎」に疑問を感じてない人がたくさんいて驚いた。そうか、自分はこういうレベルの人間を相手に議論してたんだと思って、徒労感でいっぱい。

ちなみに、科学では主観的定量化を扱うことはあっても、それを根拠として科学的知識の正当性を主張することは絶対にない。それをやってしまうと、ホメオパシーみたいな疑似科学になる。このあたりはちゃんと科学教育を受けていれば誤解するはずもないんだが、一般には良く理解されてないんじゃないかと思う。科学がどうのこうのとか言う割に、科学に全く無知なので驚いた。

あと、生物の判断のようなものをもとに科学を考える議論はありえるが、この議論の行き着くところは相対主義的。だって、生物の判断は間違えるから。ホフマイヤーの生命記号論がこれに近い。科学の知識を元に、社会を相対化する議論でたまに引用されるけど、ぐるっと回って科学自身も相対化されちゃうので自分はあまり好きじゃない。科学絶対の人が目を覚ますにはちょうど良いかも。

地下猫の周辺が「相対主義」に傾倒しているのは、これはこれで受ける。まぁ、文脈をねじ負けた詐欺記事を書く人間に何を言っても無駄だと思うが…。

おまけ

ちなみに、メインのブログに書く価値もないネタなんで、こっちに書いたんだが、ついでなので、最新記事の宣伝。

私たちは、有効な治療を拒否するような患者の話を聞くと、「非科学的な判断」「非合理的な判断」だと考えるでしょう。しかし、「科学的前提だけに基づいて合理的判断をする個人」という仮定をしたとしても―むしろ、そう考えればこそ―有効とされる治療を拒否することが合理的と言える場合があります
医療不信のリスク論

ホメオパシーは、現代医療で「リスクの問題」として無視されてきた患者の苦しみに「意味づけ」を与える役割をはたしてきたと言えます。しかし、現代社会においてこうした「宗教と科学の越境」は許されるのでしょうか。現代の医療からこうした要素を排除するべきなのか。そもそも排除できるのか。こういった問題について考えていきたいと思います。
ホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線