生きる意味とコードの自律性

初の「出張所オリジナル」記事です。

情報学ブログを開設したばかりのころ、「生きる意味について」というタイトルで記事を書いたのですが、最近、はてな匿名ダイアリーでこの問題が話題のようです。そうした中、404 Blog Not Foundの[[小飼弾]]さんが興味深いことを書いていました。小飼さんの結論は、はっきり言ってしまうと、「生きる意味について」で自分が書いたことと全く同じです。しかし、どうして興味深いかというと、その説明の仕方なのです。ドーナッツ云々は、曖昧な比喩なのでさておき、以下の部分が気になりました。

例えばここに111001011011000010001111111010011010001110111100111001011011110010111110という0と1の羅列があったとしよう。これ、そこに意味がないと思えば、ただのビットの連なりでしかない。しかしプログラマーであればそれが「小飼弾」をUTF-8で表現して、それを二進法で表示したものという意味を「見いだせる」。「だからどうした」と言われればその時点で意味は「なくなっちゃう」けど、もとから「あった」ものがなくなるわけじゃないんだからそれに意味がないことにはそれほど意味がない(笑)。むしろ「意味があった」というより「意味が見つかる」ことに意味がある。私にはね。
意味の有無を問う(無)?意味/404 Blog Not Found

ビット列をUnicodeに変換するような「コード化(encode)」の問題を扱ったのはクロード・シャノン情報理論です。シャノンの情報理論から言うと、ビット列は、情報の受信者が情報の送信者と共有する「コード」によって解釈されるものなのです。
これに対して、「情報は解釈者によって意味が異なる」「情報の意味は解釈者によって発見される」という考え方は、歴史的にはベイトソンの情報観によって先鞭を付けられたと言って良いでしょう。しばしば引用されるのがグレゴリー・ベイトソンの以下の記述です。

意味・パターン・冗長性・情報というものの性質は、我々の立つ視座によって一変する。情報工学で、AからBに送られるメッセージを論じるさいには、観察者のことは考慮せずに、Bの受信した情報量を、伝達された文字数とBに推測を許すテキスト内部の冗長性から決定するのが通例である。しかし我々の生きる宇宙を、観察者の視点によって姿が変わってくるような、より大きな視野において捉えるとき、そこに見えてくるのはもはや、"情報の伝達"ではなく、冗長性の蔓延である。
Gragory Bateson 1972 "Steps to an Ecology of Mind" 訳:佐藤良明 グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』p.542

前後がないとちょっと分かりづらいと思いますが、ベイトソンは生物は事前に定められたコードによって情報が解釈されるのではなく、冗長性によって「意味を主体的に見つける」という考え方を提示したのです。ここではシャノンの固定的な「コード」という考え方が葬られ、パターンや冗長性という言葉で「意味」が理解されています。小飼さんの説明は、シャノンのような固定的なコード概念を前提にして、ベイトソン的な考え方を指摘するものであり、情報理論の流れから言うと、ちょっと変わったものなのです。
情報学ブログの「生きる意味について」の議論では、「情報は『〜にとって』という形でしか意味を持ち得ない」ということを出発点にして生きる意味の議論をしたのですが、それにはこういう複雑な議論を避ける意味もありました。小飼さんが言いたいことを端的にまとめれば、、「情報は『〜にとって』という形でしか意味を持ち得ない」ということであり、これを出発点にして考えた方が分かりやすい説明になるでしょう。
そうとは言っても自分は小飼さんの説明に異論を唱えるわけではありません。ただ、これには若干、理論的な拡張が前提になります。情報解釈の「コード」は通常、プログラムなどで論理的に記述できるようなものを指すわけですが、論理的に記述できない「自律性なコード」にまで概念を広げるという拡張です。このように考えると、私たちは自律的に情報解釈を行いながら、自律的な情報解釈の中であるコード(たとえばUnicode)をそっくりそのまま自分のものとして受け入れるというようなことも説明できるようになります。要するに、シャノンの理論とベイトソンの議論は矛盾するわけではなく、シャノンの理論の自然な拡張としてベイトソンの議論を理解することもできるのです。この立場からすると、小飼さんの「ドーナッツの比喩」も「Unicodeの比喩」も一貫して理解することができることになります。
いずれにせよ、404 Blog Not Foundの記述は比喩的な部分も含めて自分には良く分かります。でも、これだと分からない人も多いんじゃないでしょうか。それで、蛇足ながら補足をさせてもらったものです。この記事は若干マニアックな議論に立ち入っているものなので、これを読んでも良く分からない人は、「生きる意味について」の方を読んでいただければ幸いです。