衛生感覚としての放射能

人間の衛生感覚って、合理的ではない面もあります。

たとえば、「従業員が変わった性癖の持ち主で、工場でのカレーの製造工程の加熱殺菌前の段階にうんこを入れた」と言う事件があったとして、
「加熱されているから細菌の繁殖の心配はない、スーパーの刺身の方がよっぽど危険」
「加熱しても分解しない毒素は薄まれば問題ない、輸入食品の方が心配」
と考えて、問題なく購入する人は、あまりいないのではないでしょうか。「科学的」に健康被害をもたらす可能性はゼロではないものの、非常に低い。しかし、そういう問題ではなく、嫌悪感を覚えるでしょう。うんこ入りのカレーと、うんこなしのカレーを選べるのなら、うんこなしのカレーを選ぶという人が、大部分ではないかと思います。

これは、人間が食べ物のように、経験的に大きなリスクと関係するものについて、身につけてきた「衛生感覚」の問題です。変な食べ物を食べれば死ぬことだってあるわけで、それを避けるべく、さまざまな感覚を身につけてきたのです。これに反して、「科学的に安全だから食べろ」と言っても、見当違いの議論と言えるでしょう。似た例として、性の問題があります。現代に生きる私たちは、「性病の検査をしていて、避妊もしていれば、強制的に性交を迫っても問題ない」という論理を受け入れられないと思いますが、これを、科学的な安全性で議論するのはナンセンスなのと同じことです。いずれもプライベートな領域への侵犯に対する感覚的な嫌悪感と言えるでしょう。

ただ、こんな状況はあるかもしれません。漂流中、食糧が尽きる中、カレーを作っていたら、うんこがほんのちょっと入ってしまった。他に食べるものはない…。そんな時、キャプテンはうんこが入っていても、大丈夫だということを力説し、うんこ入りのカレーをみんなに食べてもらうかもしれません。今回の放射能の問題には、こういう側面もあります。わずかでも放射能が入っている食品を全部流通させないようにしたら、日本の流通は大パニックになったかもしれない。だから、一定の規制値を設けて、それ以下だったら、流通させるという方針は、(規制の程度や時期はともかく)合理的だったはずです。

一方、漂流中で他に食べ物が全くないというほど、深刻な状況ではない場合、これは、食品のブランドの問題になります。消費者は、できればうんこなしカレーを食べたいと思っている。だから、複数のブランドを選べる状況で、あるブランドのカレーに、うんこが混入してしまったかもしれないと聞いたら、消費者はそのブランドを買わなくなります。「うんこ入りカレー」は、健康被害をもたらさないかもしれないけれど、ブランド力を失う原因になるのです。だから、普通の食品会社なら、ブランドを維持するために、できる限り早く、出荷停止や商品回収などの措置を取るでしょう。

雪印の牛乳で食中毒の事件があったとき、すでに対策がなされているのだから、それを避けるのは「風評被害」だという言い方もできたはずです。中国から輸入された餃子に致死量の農薬が混入していた事件でも、死亡例はごくわずかであり、中国食品全体で言えば、交通事故よりもずっと少ない死亡率だったのだから、それを避けるのは「風評被害」だという言い方もできたはずです。しかし、消費者はこうした商品を避けました。それは、これが食品に関する信頼の問題であり、ブランドの問題だからです。

放射能の問題も同じであり、「風評被害」と批判しても仕方ありません。言うならば、ブランド被害です。原子力発電所の爆発によって、周辺の農産物のブランドが失われ、行政や農協の態度によって、そうしたブランド被害が拡大したというのが現状でしょう。

もちろん、東電や政府の負担額が増えると、最終的に税金や電気料金に跳ね返ります。だから、放射能を含むかもしれない農産物も積極的に食べましょうというキャンペーンは、それなりに合理的なものだと思います。また、いくら東電や政府の負担額が増えたところで、農家に対する補償が完全にはならないのだから、消費者が購入することで補うしかないという主張も、もっともな面があると思います。

ただ、理論上の話について言えば、それは消費者の選択にまかせられるべきであり、生産地や放射能の数値の公表によって、消費者に安心感を与えるとともに、ブランド力の向上につとめるべきだということになるでしょう。「うんこ入りカレー」を流通させるのは仕方ないにしろ、どれにどの程度入っているかは明示されるべきだという考え方です。「うんこ入りカレー」は健康被害がなくても、強制されてはいけないのです。これには、多くの人が納得するのではないでしょうか。

しかし、残念なことに、こうしたブランド被害は、強調すればするほど広がるという問題があります。放射能の検査を厳密に行い、規制値を超える農作物の出荷制限が報道されればされるほど、ブランド被害は広がります。一方、「そんなもの」ないんだという報道を繰り返せば、ブランド被害は最小限に食い止められます。したがって、規制値を緩め、ブランド被害を「風評被害」などと言い換えて、消費者を悪者にするのが、ブランド被害を最小限に留めるためにもっとも合理的な方法なのです。行政や農協は、この方針にかなり成功しているように思えます。セシウム牛の報道があるまで、福島産の牛肉が、問題なく売られていたことなどが、その一例でしょう。

日本の食品の海外への輸出比率が低く、マスコミの報道がダイレクトに消費につながる日本では、放射能の検査を強化するメリットよりも、行わずに「風評被害」を強調する作戦の方がブランド被害を最小にする目的にかなっているのです。農協の政治力を考えると、しっかりと放射能の検査が行ってほしいと考える人の願いが満たされる可能性は極めて低いと言えます。

行政の対応が期待できない現在、こうした現状を解決するには、市場原理にしたがった方法を取るしかないと思っています。「当店の商品は、○○Bq/kg以下であることを確認しています」「○○Bq/kgを超えたものについては、数値を表示しています」といった形で販売している店舗が増えることでしか、問題を解決できないということです。これを実店舗で行うのは限られた地域以外では難しいと思いますが、通販でなら可能です

たとえば、食品のネット通販を行っているOisixでは、全商品について放射能の検査を行っており、国の暫定基準値より厳しい、370Bq/Kgが保障されています。また、現在では、全商品が「検出されず」とされており、こちらについては、若干あいまいな記述であるものの、概ね、10Bq/kg以下を意味するようです。link

割高な料金を支払ってまで、こうした食品を買う価値があるかどうかは、賛否が分かれるところかと思います。しかし、こうした取り組みが安心した食品のブランドとして成功し、より一般的になっていくことは、行政や生産者の側が、食品の安全性に気をつけるようになるきっかけとはなるかもしれません。ただ、現状でこうしたサービスが爆発的に拡大しているようなことはありません。

そうだとしたら、むしろ、精神的努力によって、自分の衛生感覚を訓練しなおし、多少の放射能が含まれても問題ないということを、自分に納得させた方が、手っ取り早いかもしれません。うんこ入りカレーだって慣れれば食べられるようになるはずであり、訓練すればレイプされても苦痛に感じなくなるかもしれないのと同じように。

これはなかなか難しい問題になりそうです。

福島の事故とがん保険についてのうわさについて

生命保険会社に勤める知人が、「最近、ガン保険のCMがなくなったと思わへん?」と。理由を訊いたら、外資系には共通の資料が回って来て、原発事故後のガンの発症率が上がったので売り止めがかかってると。特に0〜6歳の子供達の被爆が指摘されてて、北海道〜関西圏が汚染地域として指定されてると。
http://twitter.com/#!/hosshyan/status/106572842556080128

なんか、このtwitterが「デマ」だとして、ひどく批判されているようです。たしかに、今の段階でがんの発症率が上がっているとは到底思えないので、一見すると「明らかなデマ」に思えます。

ただ、この文脈で「がんの発症率」という言葉が意味しているのは、「将来予測されるがんの発症率」だという可能性はあるでしょう。将来予測されるがんの発症率」をどう見積もるかは難しい問題ですが、保険会社が「将来予測されるがんの発症率」が事故前より高くなった考えているというのが、ただちに「デマ」と言えるほどありえない話とは思えません。

自分は、事故によってがんの発症率が上がるか上がらないかで1:1の賭けがあったら、確実に「上がらない」の方に賭けます。そういうレベルの話であれば、「上がらない」と思います。ただ、事故前と比べて、がんの発症率の予測に、不確実性が生じたのは事実でしょう。たとえば、事故直後に、将来、がんの発症率が上がるかどうかと言われたら、分からないとしかいいようがなかったはずです。こうした状況で、今までどおり、がん保険が売られていたとしたら、それこそ不思議な話でしょう。事故後のある段階で、「今後のがん発生率の動向が予測できないので、販促はほどほどにするように」という通達があったりしても不思議ではないと思います。そして、「動向が予測できない」対象地域として、北海道〜関西が取り上げられていたとしたら、まぁ、妥当な線ではないかと思います。

ちなみに、これについてNATROM氏が、「もし、本当なら、保険料が上がるか販売を指しどめるはず」という指摘をしているようです(id:NATROM:20110825)。これは、保険会社が、「現在のがんの発症率が上がっている」という情報を持っている場合にも、「将来確実にがんの発症率が上がる」という判断をしている場合にも成り立ちますが、「リスク計算の不確実性が増えた」と判断をした場合には成り立ちません。この場合、「様子見のため売り控え→実際には大したことないと分かって通常営業」という流れになる(あるいは、すでになっている)可能性の方が高いので、NATROMさんの指摘は必ずしも当たらないのではないかと思います。

たしかに、この話は陰謀論的に解釈され、「本当はがん発生率が上がっているが、隠されているのではないか」と言う反応を示す人がいそうなので、どうやってもそうは理解できないということを指摘することは大切かもしれません。ただ、少なくとも「どう考えてもデマ」と言えるほどおかしな話ではないということは、同時に理解しておかないといけないのではないかと思います。

まぁ、この時期にこの話をリークすることが、マーケティング上の理由によるかもしれないという仮説は、それなりに信憑性が高そうだとは思いますが…

フジテレビのデモは行われなかった

今日行われたフジテレビの韓流ごり推し反対デモについて、
デモの是非に関して言うと、
最近のネットでの主流派の主張に完全同意なので、
追加で言うことはほとんどありません。

1. フジテレビをはじめとするテレビ局は、
電波オークションを拒否することで、
電波利用料を安く買い叩いており、
これは、膨大な国費が投入されているのと同じことである。
ところが、電波オークションの導入論に対して、テレビ局は「公共性」を盾に反対してきた。
つまり、テレビ局が「公共性」を否定するなら、電波オークションの導入を拒否できない。
しかし、電波オークションが導入されれば、
現在のテレビのシステムが解体されるのは必至なので、
テレビ局にとって「公共性」はなくてはならないキーワードである。

2.テレビ局が特定の商品に肩入れして人気を惹起するのは、
伝統的に行われてきた手法であった。
自社のドラマや映画を、番組内でしつこく宣伝したり、
ジャニーズやAKB48などを「国民的アイドル」として持ち上げ、
一切の批判を許さない姿勢などが見られた。
この背景には、芸能事務所との力関係や、
放送外収入の問題などがある。
これらは、形式的には広告放送の分離を定めた放送法51条2項に違反しないとは言え、
少なくとも、テレビ局の公共性に疑念に抱かせるものであり、
大きな問題であると言える。
韓流ごり押しの問題は、こうした多くの問題の一例に過ぎない。

3. インターネットを始め、メディアが多様化した現在、
テレビ局が利益を維持するために、
こうした「偏向した」報道に走らざるをえないのも事実であり、
「テレビの公共性を取り戻せ」というのに、
ほとんど意味がないという主張には同意できる。
ただし、そうでれば電波オークションを導入するべきである。
これは、実質的に現行のテレビのシステムの解体を意味する。
だから、テレビ局が現在の体制を維持しようとするのであれば、
矛盾を知りつつも、批判を無視する態度を取るしかないのも仕方ないことである。

4. 他に多くの「ごり押し」がある中、
韓流ごり押しの反対にだけデモが成立するのは、
排外主義とのつながりがあることは否定できない。
だから、このデモに積極的に参加する気にはなれないが、
現在のテレビのシステムの矛盾を提示するという意味では、
重要な意味があると考えているし、
その意味で、気持ちの上では応援したいと考えている。

3,4あたりは人によって違うにしろ、
1,2は、大筋で合意されている話ではないでしょうか。

さて、この記事で言いたいのは、このことではありません。

自分は、上に書いたような理由で、フジテレビで行われたデモを、
遠巻きながら応援したいという気持ちを持っているわけですが、
このデモは、フジテレビにほとんど影響しないと思います。

なぜなら、「フジテレビのデモは行われていない」からです。

日本の大手メディアは、このデモを一切報道していません。
デモが1万人になっても、10万人になっても報道しない。
ネットを見ない多くの人にとって、
このデモは「存在しない」のです。
だから、フジテレビが抗議文の文書受け取りを拒否したものも当然のことです。
存在しないデモなど無視すれば良いわけで、
文書を受け取って、存在を認めることになるのを恐れたのではないかと思います。

今の大学生を見ていると
「テレビよりもニコニコ動画」という学生も多いので、
そういう感覚からすると、ネットの言論の方が
メインであると思いがちです。
ただ、テレビ局の人がそんな感覚でいると思ったら間違いでしょう。
世の中には「ネットは見ないが、テレビは見る」という人がかなりの割合を占めており、
テレビ局はむしろこういう人を相手に商売しているということが
重要ではないかと思います。

まぁ、これは異常と言えば異常な状況ですが、
もともと、クロスオーナシップが一般的な日本のマスメディアはそもそも異常なのです。
これに関して、ネットで批判するのは簡単ですが、
いくら批判しても、大手マスコミしか見ない人にとっては、
その批判自体が「存在しない」わけですから、
痛くも痒くもないわけです。

日本のテレビの将来ということを考えたとき、
趣味・嗜好の多様化した現在、
技術的には、IPマルチキャスト化、衛星放送化するのが合理的なわけで、
その中で、現在の地上波テレビのようなものは、
緩やかに縮小していただくというのが、
筋ではないかと思います。

ただ、今回の件でも明らかになったように、マスコミのシステムそのものを批判する声が、
マスコミの内側に決して届かない、
したがって、力を持った意見として、
政治や行政に届かないという現状を、
無視してはいけないでしょう。

おそらく、テレビは韓流ごり推しの次は、
もっと別のものをごり押しし、
ゆっくりとではあるが、さらに劣化していく。
韓流ごり推し反対デモは、
そういう時代のメルクマールとして、
歴史に刻まれることになるのかもしれません。

日本は所得を「逆分配」してるのか?

池田信夫先生の最近の記事、元のニューズウィークの記事は特に問題ないと思うのですが、その補足として書かれたこちらの記事は、言いたいことと内容がちぐはぐになっています。特に、太田氏の論文として引用されている内容が、結論と一致していていないのです。

太田氏の論文として引用、言及されている内容は「日本は所得の再分配をしているが不十分。諸外国と比べるとその程度が低い」ということです。いろいろ書いてあるが、基本的にはこの線を出ていません。特定の問題に焦点を当てたときに、逆再分配になっているということについては、池田信夫氏の別の記事等で述べられているわけですが、少なくとも太田氏の論文への言及からはそのことは分からない構造になっています。大きく見れば、所得の再分配は行われているというのが結論になるはずです。

一方、池田信夫氏が「逆分配」と言うのは以下の状況です。

日本の社会保障は、その再分配の7割以上が老人福祉にあてられているため、所得の低い人に高い人の所得を再分配する機能をほとんど果たしていないのだ。高齢者の所得は低いが、家計貯蓄の7割近くを60歳以上がもっているため、これは貧しい勤労者から豊かな高齢者への逆分配になっている。

前半で言われているのは「部分的に所得の再分配がうまく行われていない状況がある」という話、後半(太字部分)で言われているのは、「所得の逆分配」ではなくて「資産の逆分配」がされているという話です。前半と後半で別のことを述べているのです。

まとめると以下の通り。

  1. 所得に関しては全体として再分配になっているが、諸外国と比べるとその程度が低い(太田氏の論文)
  2. 所得に関して、一部に逆再分配になっている状況がある(池田信夫氏自身の別の記事等)
  3. 資産に関して逆再分配になっている。

ところが、記事全体としては、「所得の逆再分配を見直すべきだ」という結論になっています。つまり、1は結論の背景になってはいても、論拠にはなっていません。また、3は結論と無関係です。2だけが結論を支える重要な論拠なのです。

ということで、池田信夫氏の記事の間違いは以下の2点ということになります。

  • 太田氏の論文から「所得の逆再分配」などという結論は得られないのに、あたかもそうであるかのような書き方をしている。
  • 「所得の逆再分配」は部分的にしか成り立っておらず、記事全体で言えているのは、「部分的に所得が逆再分配される状況がある」ということと「資産の逆再分配」されているということに過ぎない。しかし、これを「所得の逆再分配」と名付けている。

たしかにこの記事、経済学部の大学生向けに、論理的思考のトレーニングの課題として最適です。おそらく、そういう教育的配慮で、この記事を書いていらっしゃるのでしょう。いつも経済学者を辛口に批評される池田信夫先生が、「所得」と「資産」を混同されるはずがありませんから。

ちなみに、結論自体を否定するつもりはありません。結論に至る論理展開に、必要のないものがたくさん混入しているという指摘です。念のため。

地下猫が返答に窮して爆発、情報学ブログとのやりとりにて

地下猫氏(id:tikani_nemuru_M)とTwitterでやりとり(togetter)をしていたのだけれど、返答に窮して答えられなくなったあげく、「読む価値も対話の価値もない」だそうだ。

「情報学ブログ」の読み方・楽しみ方 id:tikani_nemuru_M:20100902:1283403156

たしかに、間違えて書いて途中で訂正した点はあるが、基本的には地下猫の論旨が一定していないので、それに合わせて相手をしたあげただけ。そしたら「一貫してない」と宣う。全部相手をしてやっている暇はないので、最初の2つの論点だけ反論しておこうと思う。

一つ目の論点

まず、地下猫のTwitterの発言のまとめ。

  1. 事実に基づいて科学が成り立っているから科学は正しい。
  2. 事実の例として「定量化」されたデータがある。
  3. 定量化の例として「飢えの定量化」や「痛みの定量化」といった定量化がある。

まとめると、「飢えや痛みの定量化を含め、定量化されたデータは事実であり、科学は事実を根拠としているから正しい」ということだ。これに対して私は、「痛みの定量化なんて主観的なものだし、それならホメオパシーと同じじゃん」って言ったのだが、いまだに反論はない。

地下猫氏は、この議論の過程での私の「定量化」という言葉のブレを問題にしているようだ。もともと、「科学の根拠は事実」「事実の例として定量化」があるという話の流れだったので、当然、「客観的な定量化」が問題になっていると思った。ところが、地下猫氏が「痛みの定量化」というから、「できるなら天才だ」という対応をしたわけだ。もちろん、主観的定量化も含めて「定量化」という表現を拡張するなら定量化はできるが、そうだとすると、地下猫のそこまでの議論が全部崩れる。

要するに「狭義の定量化」と「広義の定量化」の違いの問題に過ぎないということ。

自分の読解力のなさを棚に上げて、議論を投げ出し、勝ち誇ったつもりになっているらしい。ご苦労様。

二つ目の論点

二つ目の論点はもっとひどい。自分が間違えて書いたので訂正したものを取り上げていい気になっている。「訂正した」という点を、小さく注に書くとかほとんど詐欺。

相対主義うんぬん

基本的に自分は相対主義なんか擁護してないのに、勝手に「相対主義者」と決めつけて批判してる。「相対主義じゃダメ」って一貫して言ってるんだけど。彼には分からないらしい。ちなみに、自分が言ってるのは、議論の目的に応じてメタな視点(相対的な視点)も必要という話。これは相対主義とは全く異なる。議論の目的に応じてメタな視点を取ることを拒否するのなら、それは単なる頭のおかしい人だ。

それから、事実の相対性云々は、彼の用語があまりにも一般的な用語と違うので、こっちが何度も用語を変えて説明した。それで揚げ足取られても困る。まずは、どういう意味で「事実」と言ってるのか明確にしてもらわないと話にならん。

定量化について追記

コメント欄とかはてブを見てたら、「主観的定量化が科学の基礎」に疑問を感じてない人がたくさんいて驚いた。そうか、自分はこういうレベルの人間を相手に議論してたんだと思って、徒労感でいっぱい。

ちなみに、科学では主観的定量化を扱うことはあっても、それを根拠として科学的知識の正当性を主張することは絶対にない。それをやってしまうと、ホメオパシーみたいな疑似科学になる。このあたりはちゃんと科学教育を受けていれば誤解するはずもないんだが、一般には良く理解されてないんじゃないかと思う。科学がどうのこうのとか言う割に、科学に全く無知なので驚いた。

あと、生物の判断のようなものをもとに科学を考える議論はありえるが、この議論の行き着くところは相対主義的。だって、生物の判断は間違えるから。ホフマイヤーの生命記号論がこれに近い。科学の知識を元に、社会を相対化する議論でたまに引用されるけど、ぐるっと回って科学自身も相対化されちゃうので自分はあまり好きじゃない。科学絶対の人が目を覚ますにはちょうど良いかも。

地下猫の周辺が「相対主義」に傾倒しているのは、これはこれで受ける。まぁ、文脈をねじ負けた詐欺記事を書く人間に何を言っても無駄だと思うが…。

おまけ

ちなみに、メインのブログに書く価値もないネタなんで、こっちに書いたんだが、ついでなので、最新記事の宣伝。

私たちは、有効な治療を拒否するような患者の話を聞くと、「非科学的な判断」「非合理的な判断」だと考えるでしょう。しかし、「科学的前提だけに基づいて合理的判断をする個人」という仮定をしたとしても―むしろ、そう考えればこそ―有効とされる治療を拒否することが合理的と言える場合があります
医療不信のリスク論

ホメオパシーは、現代医療で「リスクの問題」として無視されてきた患者の苦しみに「意味づけ」を与える役割をはたしてきたと言えます。しかし、現代社会においてこうした「宗教と科学の越境」は許されるのでしょうか。現代の医療からこうした要素を排除するべきなのか。そもそも排除できるのか。こういった問題について考えていきたいと思います。
ホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線

id:khiroakiさんのidコールへの返答

このコメント群が「バカにしている」ものだけだと思うなら,私はやはりあなたは誤解なさっていると思う.勿論,バカにしてるだけのコメントもあるけど./科学に対立する「事実」はどこ?
http://b.hatena.ne.jp/khiroaki/20100828#bookmark-24388843

とりあえず、「伝わってない」「相手に響いてない」ってことを「バカにしてる」と表現してるんですが…。事実とか言ってる時点で、話がすれ違っています。

この一連の報道のせいで、「ホメオパシーに不信感を持ったのでやめます」みたいな方は
まだ一人もいらっしゃいません。

この記述がウソでなければ、これほどまでに叩いていたことは、あまり意味がなかったってことですよね。それを指摘しただけです。「バカにしてるだけ」というのは、そのことの表現です。

ちなみに、元のコメントに貼ったリンク(自分の記事)では「事実はどういう意味での事実か」を書いています。ホメオパシーにとっての事実に、科学にとっての事実で批判しても、話がすれ違ってますよねって話。突っ込んで言うと、「バカにしてるだけ」っていうのは、こういう「すれ違い」の話とも言えます。カルト宗教の信者に、科学的に語っても、すれ違いにしかならないし、根本的には「ばーかばーか」って言ってるのと同じことにしかなりません。ホメオパシー批判も、「またこいつら変なこと言ってる」って言う形で表現してしまったら、「ばーかばーか」と同じレベルですよっていうことです。

「バカにしてる」じゃないのは、相手の世界観を認めた上で、「こっちの方が優れている」と言う立場です。これも自分の記事で書きましたよね。これは日常的にもごく普通のことではないでしょうか。ちなみに、「世界観を認める」っていうのは、科学的に正しいって認めることじゃないですよ。変なところにこだわる人がいるので、念のため。

はてなの威力

ブログの記事にはてブのブックマーク数と、最新コメント10件を付けるようにした上で、
はてな関連の整理記事を書いたら、
ブックマークが増えた。

それでアクセス数を見たらびっくり。
結構少ない。

経済的問題としての、また、文化的問題としての移民問題
ブックマーク数24/ユニークアクセス数346(14人に一人がブックマーク)
http://informatics.cocolog-nifty.com/news/2010/08/post-065a.html

個人の問題と社会の問題―幼児虐待死の議論を通して
ブックマーク数12/ユニークアクセス数260(21人に一人がブックマーク)
http://informatics.cocolog-nifty.com/news/2010/08/post-2116.html

はてなからのアクセスが多いというのも理由なんだろうけれど、
意外にちゃんと評価されるんだなと思った。

しかし、問題なのはアクセスを増やすことの難しさ。
一度、はてなのトップにも出てたけれど、
数十程度のアクセスしかなかった。
要するに、リンクを見ている人は多いはずなのに、
必ずしもクリックをしないということだ。

ブログって意外に難しい。